11Aug
『桂さん、その後変わりはないですか?』
『はい、先週からは特に何もないですね』
篠崎はいつの間にか桂のことを「高木さん」ではなく、「桂さん」と呼ぶようになっていた。
名前で話しかけられるたびに、それがチャットであっても桂は嬉しく感じていたし、いつもの時間…日本時間で土曜日の午後10時以降になると、必ずスカイプにログインして篠崎のログインを待つようにもなっていた。
『では、トリップもここ一ヶ月ほどないですね』
『はい、落ち着いています』
篠崎は、桂が現実世界を離れてあちこちに行くことを「トリップ」と呼んだ。果たして、それがあっているのかどうか桂にもよくわからないが、なんとなくそういう名称で呼ぶと症状を把握できるような感じがあった。
『そうですか…良かった』
篠崎とのチャットは夫には秘密だった。しかし、夫の修二はここ数ヶ月、職場での昇級試験の為に週末の夜は早々に寝て早朝に勉強する、というやり方をしているので隠すのは容易だった。おそらくこの時間はすでに夢の中だろう。
『篠崎さん…実はご相談があるんです』
『なんですか?』
桂は、ずっと告げようかどうしようか迷っていたことを、今、相談しようと心に決めた。
それは、篠崎と初めて会った日に、トリップが起きて…人間の姿形なのに人間でない存在が目がくらむほど眩しい光を桂に向けようとした後から起きた変化だった。だが、それはあまりにも普通じゃないことに思え、誰かに相談することさえもはばかられたのだ。
『実は…』
『ちょっと待って。結界を張ります』
『は?』
篠崎を好ましい相手として信頼しているが、時々こういうことを言い出すのが桂にはまだ理解出来かねる部分だった。結界?張る、とはどういうことなのだろう?
『…済みました。もう大丈夫です』
『あの…どういうことでしょうか?』
『ネット上には、様々な存在が情報を仕入れようと網を巡らせているんです』
『はい』
『なので…僕たちの会話がキャッチされないように結界を張りました。もう安全です』
『はぁ…まぁ、聞かれて困る話ではないんですが』
『そうですか。でも安全の為に張っておいた方がいいです。ネットは侵入されやすいので』
まるでコンピュータウィルスのことを言っているようだ、と桂は思った。だが、篠崎が言っているのはきっともっと違う意味なのだ。桂のまだ、計り知れない世界を彼はすでに知り、経験している。
『ずっと相談しようかどうしようか迷ったんですが…手から光が出るんです』
『え?』
『おかしいと思わないでいただきたいんですが…目に見える光とは違うんですが,動物や植物に触れると、手から白い光が出るような気がして…』
『…なるほど…』
『それで、ですね…友達が飼っていた猫が、もう瀕死だったんですが…』
『はい』
『私が手をしばらく当てたら、元気になったんです』
『すごい!』
『友達からは、お医者様からはもう駄目でしょう、と言われてたのに、と言われて、友達もすごく喜んでくれたんです』
『すごいですね!』
『でも、結局一週間後には亡くなってしまって…』
『そうでしたか…』
『私、何かできるかな、と思ったんですけどやっぱり駄目ですね…』
『いや、そんなことはないですよ』
『でも、結局救えなかった』
『いや、桂さん。その猫は寿命だったのではないですか?』
『…あ、そうですね。そういえばもう結構な年だった、って言ってました』
『桂さんは、癒しの手の持ち主なんですね』
『は?』
『手から光…癒しの光を出す人をそう言います。ラファエルの使徒、とかね』
『はぁ…』
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